同窓会 無事に終わったかな。
代表幹事としてこんなイベントに携わると、本当に面倒で煮詰まって、時間なくてイライラして「もうやらない!」と思うけど、当日のみんなの笑顔をみると「やって良かったなぁ」に変わる。こんなことの繰り返しなんだろうなぁ。
いま会計担当の同級生とも収支の確認をし、とりあえず赤字は出さない、かつ儲けない会で終えることができることを確認し安心しました。
「一瞬のHAPPYのために走れる」ってのはこんなことなんだろうね。
良い時間をもらった。
明々後日は小学校卒業35周年記念の同窓会。
僕らの中学校は他の小学校と二つ合わさっての中学校だったので中学校の同窓会に行けばみんなとは会えたけど、先生とお会いするのはまさに35年ぶり。この歳になってやっと一緒に呑む機会に巡りあうわけだ。
で、今日は同窓会の時に投影する写真撮影で小学校に。
久し振りに足を踏み入れる学校は、ひとつひとつの風景が当時の空気を真空パックしたようにそのまんま。校舎も備品もそのまんま。当時は気づかなかった音楽室のガラス窓、こんなに洒落てたんだね。ここのドア開けたら嗅覚から思い出が一気に蘇った。
「自然」は近くになくていい。
贅沢な朝を過ごしました。夜明け前から波が打ち寄せる際に椅子を出し足を海につけ、登る朝陽をずーっと、ぼーっと見てました。その瞬間のために予め用意しておいたBGMと波の音。最高の時間。誰もいない夜から朝に移る時間。こんな瞬間をたまに思い出すことでまた仕事頑張れます。
大事にしている2つの事
毎年7月15日は曜日に関係なく博多祇園山笠のフィナーレ「追い山」。
発作的に見たくなって仕事のスケジュールを組み立てなおし、最終バスに乗って博多に向かいました。
福岡に住んでいたころは「大黒流」を舁いたこともあり、それからずっと僕はこの祭りの虜。7月に入るとどことなくそわそわしだして、輪切りにした胡瓜の切り口が櫛田神社の神紋の文様に似ていることから山笠期間中は胡瓜を断ってみたりと如何にも参加するかのようにふるまったり(笑)
今回も初めは15日の早朝のテレビ中継を観るつもりでしたが、当日になり自分の「バネ」を試してみたくなりました。
「バネ」=瞬発力・機動力
だんだん歳を重ねると「バネ」が錆びてきて行動を起こすにも、ついリスクマネジメントしたり用心深くなったりする節があります。それはそれで悪いことではないと思いますが、これに慣れてしまうと大事な決断を素早くしなければならない時の速さが鈍る気がするのです。今回の「追い山」を見に行くという行為は仕事が立て込んではいましたが、自分の「バネ」を鍛え直したくなっての行動でした。
結果、大正解!
早朝のバスで熊本に戻ってそのまま仕事に突入。いつもより仕事に集中できています。たまには緩くなっている「バネ」のメンテナンスは必要だと身をもって感じました。
ひとつの大事な「ハバ」。これはまた別の機会に書きたいと思います。
こんな考え方ができる。
チベット密教によると時間は、未来から過去へ流れるという。
先祖がいて、両親がいたから今の我々が存在しているのは間違いない。今から話すのはそういうことではなく、将来設計の話です。
我々は、今までの教育としてあの時サボっていたからこうなったんだよ。と、失敗したときに叱られた経験で育ってきた。戒めとして。だからいま起きている事象は過去の産物であると思いっているので、ついつい悔やんだり、ある種の諦めを抱いている。しかし今日を境に、そうではないという思考をやめてみる。
確かに物事が上手く進んでいる時には、過去の努力の積み重ねが今を作っているという考え方もあるだろう。しかし停滞感がある時には、その考えは今から迎える未来への障害でしかない。
つまり、時間は未来から過去へ流れるという思考に変える。この考えは少し見方を変えるだけでえらく腑に落ちる。
過去に目を向けることは将来の目標達成においては重要ではなく、むしろ邪魔なものでしかない。将来に向けて良い種を蒔いておくことで、いまやった方が良いことが次第に見えてくる。いま停滞感があるのであれば今からのコミットを決める。将来はこうなりたいという理想を描いて。
そう考えるとアスリート達がやっている「自己実現の原理」からいえば、目標を達成している自分から現在の自分を鑑みるとこれからの行動を変えた方が良いというのが理解できる。
自然界において動物たちの境遇において著しい個体差は存在しない。
しかし人間の場合、明らかに境遇の個体差が生じるのはどうしてか。
時間は未来から過去へ流れると理解できる人間だから未来へ向けて身の周りの環境をコントロールすることができる一方、その観念を理解しない動物たちは、環境にコントロールされることになる。
我々は未来から流れてくる時間の川下に立っている。